伊勢神宮と仏教

 

伊勢神宮は天照大御神をはじめとする神様を祀る神社の最高位の一つですが、仏を祀るお寺との関係はどの様なものだったのでしょうか。

歴史を基に見ていきましょう

 

かつて僧侶たちの立ち入りは禁止だった

 

何ごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる

 

伊勢神宮を訪れ、西行法師が詠んだとされる歌です。僧の身であった西行も、伊勢神宮に「神」の存在を感じ、涙を流したという逸話には、現代の日本人である私たちも、感ずるところがあるのではないでしょうか。

 

西行は武家出身、その中でもかなりのエリートで、優れた歌人としても有名でした。何不自由なく暮らしていた西行。そんな彼が若くして出家するときには、当時の人々からかなりの注目を集めたそうです。

 

政界の中央にまで名を馳せていた西行ですが、実はそんな西行であっても、伊勢神宮の境内には入れなかったといわれています。伊勢神宮は古来より、僧侶たち専用の遥拝所を設け、仏教との接触を避けていました。

 

「神風」と法楽舎の誕生

 

教科書でもおなじみの、元寇こと蒙古襲来。フビライ=ハンが日本に対し、朝貢を要求してきました。しかし、時の幕府の執権であった北条時宗がそれを無視し続けた結果、フビライは日本侵攻を決意します。この出来事は、まさに国家存亡の危機でした。

 

文永の役(1274年)の言い伝え

 

1回目の元寇の際、内宮と外宮、それぞれにあった「風社」に伊勢神宮の神職ら12人が祈祷します。すると、2つの社は鳴動し、紅の雲が発生、周辺の大木や岩を巻き上げて西へ西へと飛んで行きました。そして、それらの大木が元の船団の上に落ち、元の軍を退けたと伝えられています。

 

この神威が、それまで仏教忌避の流れにあった伊勢神宮に、大変革を起こすきっかけとなります。その翌年、朝廷は異国降伏のために法楽舎(ほうらくしゃ)という仏教の祈祷所を設けました。この法楽舎は内宮と外宮に設けられ、明治時代、廃仏毀釈の時まで存在していたようです。

 

弘安の役(1281年)の言い伝え

 

二度目の元寇の際にも、似たような言い伝えがあります。

 

文永の役の翌年に設置された法楽舎が存在しており、神仏が力を結集させたことから、元軍に拳ほどの雹が降り注ぎ、海が大いに荒れてしまいます。その結果、約4千と言われた船のほとんどが海中に沈んでしまった、というものです。

 

ご存じのように、元寇の時に起こった「神風」はその後、長き渡って語り継がれることとなります。

 

風宮と風日祈宮

 

風宮と書いて、「かぜのみや」と読みます。外宮の別宮です。かつては無名な社に過ぎませんでしたが、元寇における神威があまりにも大きかったため、一気に社から宮になったそうです。元寇の衝撃は、当時それほど大きかったということですね。

 

また、内宮には、風宮と同じご祭神を祀る風日祈宮(かざひのみのみや)があります。

 

戦乱期における僧・僧尼たちの活躍

 

南北朝時代から室町時代になると、伊勢神宮の財政は困窮します。時は乱世であり、朝廷どころか幕府の力まで弱体化していました。そのため、20年に一度行われるはずの式年遷宮は内宮で124年、外宮で130年、中断される羽目になってしまいます。

 

当然、社殿や橋も次第に老朽化していきます。しかし、そんな状況を打ち破るべく、神職よりも素早く行動を起こしたのは、なんと僧や僧尼たちだったのです。

 

僧・僧尼たちは全国を巡って、お布施を集めます。寛政5年(1464年)には勧進聖の本願によって、文明9年(1477年)には勧進聖の乗賢によって、内宮にかかる宇治橋の維持や建て替えが行われることになりました。

 

その後、勧進聖たちの住む慶光院という寺社が誕生します。その住職には、代々天皇から上人号が与えられました。そして遂に、僧侶たちの力によって、式年遷宮までも再興するに至ったのです。

 

朝熊かけねば片参り

 

伊勢には、朝熊岳(あさまだけ)金剛證寺というお寺があります。「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」といわれ、伊勢神宮に参宮した後には、必ず参詣されてきたお寺です。

 

伊勢神宮の北東、いわゆる鬼門に位置することから、そういわれるようになったそうです。伊勢神宮へ行かれた際には、伊勢神宮の復興に尽力した僧や僧尼たちへの感謝の意味を込め、近くのお寺に参詣するのもいいのではないでしょうか。

 

朝熊岳金剛證寺へ行くには、伊勢志摩スカイラインを経由します。そのため、何しろ景色がいいので、おススメです!

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