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抜け参りとは
江戸時代、60年に一度は大流行したと言われるおかげ参り。「おかげ参り」という言葉、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
突発的に集団で日常生活を抜け出して、伊勢神宮へ参宮した現象のことです。当時は、「一生に一度はお伊勢参り」と言われたように、庶民の間で伊勢参りが大流行しました。
江戸時代に大流行した抜け参り
江戸時代、とくに下記の年に大流行したそうです。正確には、60年周期ではないことが分かりますよね。一般に60年に一度は起こるとされていたのは、十干十二支の考え方から、親しまれやすい考え方だったからだそうです。
慶安3年(1650年)
宝永2年(1705年)
享保8年(1723年)
明和8年(1771年)
文政13年(1830年)
「おかげ参り」と呼ばれるようになったのは明和の時代からで、それ以前は「抜け参り」と言われてました。それでは、どういった出来事がきっかけで抜け参りは大流行したのでしょうか。
子供・女性が発端
宝永2年の抜け参りについては、その年の閏四月の頃から、抜け参りが始まったという記録が残されています。京都の子供たちが親に断りもなく、集団で伊勢神宮に出かけたことがきっかけだったそうです。
その後、子供たちだけでなく、大人たちにも抜け参りが流行します。自分の意志で抜け参りに向かった人のうち、17歳以上では、女性の割合が男性を上回っていました。すなわち、子供や女性が抜け参りの発端だったといえます。
時には無事で帰れないことも
宝永2年は362万人、文政13年には450万人以上が、伊勢神宮へ参宮したといわれています。しかし、信仰の旅とはいえ、見知らぬ土地を何日も歩き続けることは、とても大変なことでした。言葉や習慣が違いますし、食事や宿泊施設も十分に確保できないこともありました。長旅によって体調も崩しやすくなり、抜け参りは辛いことも少なくなかったそうです。
そのため、何らかのトラブルに巻き込まれたり、参宮という目的を果たせないまま帰途についたりした人々もたくさんいたそうです。
抜け参りが流行した当時の時代背景
では、なぜ子供や女性を中心としたグループが、わざわざ遠い伊勢神宮まで参宮する必要があったのでしょうか。それには、当時の時代背景が関係しています。
華やかな町人文化
いわゆる「抜け参り」が一般的になったのは、元禄期です。元禄時代といえば、戦もなくなり、世の中が安定した時期です。そのため町人の経済が発展し、文化が花開いた時期でもありました。
18世紀に入ると、本格的に町人が、時代や社会をリードする立場となります。経済の発展は、庶民の生活に余裕を生み出します。読書や芝居、旅なども娯楽として定着していきました。そして、当時の富裕層の間に、信仰と娯楽を兼ねた「伊勢参りの旅」というものが、この頃から一般化しつつありました。
格差社会
そんな豊かな都市生活を楽しむ層が誕生したとともに、一方では、どれだけ働いても、苦しい生活を余儀なくされる階級も存在しました。また、経済的格差だけでなく、当時は強い家族制度の中で、妻や子供たちは、様々な規制の中で生活をしていたという、成人男性との格差もありました。
伊勢神宮に行こうとしたら、仕事を休まなければいけませんし。また、もちろん多額の旅費もかかります。社会的に厳しい環境にある貧しい労働者や、女性・子供たちは、伊勢神宮に一度は参宮してみたいと思っても、なかなか気軽に行けるものではありませんでした。そこで流行したのが、抜け参りです。
最初は下級労働者たちのガス抜きだった
このように、初期の抜け参りは、尋常な手段ではとても伊勢神宮に参宮できないような階級により、行われるものでした。町人の華々しい時代の到来を一番肌で感じていたものの、それを享受できなかった人々に、鬱憤がたまっていたことは容易に想像ができます。
究極のストレス解消法
そこで、下層民たちの困苦に対する、いわばガス抜きの役割を、抜け参りは担っていました。抜け参りは突発的ではあるものの、何日か待てばまた帰ってくるという認識がありました。また、皇祖神をお祀りしている伊勢神宮へ参拝し、国家安泰を祈るという旅の大義名分もあったため、許される傾向にありました。
なお、伊勢神宮への参宮は尊いものであるため、妨害すると神罰が下ると考えられていたそうです。そのため、たとえ無断でも、伊勢神宮へ参宮したものを罰するわけにはいきませんでした。
言ってみれば、抜け参りは、当時の庶民にとって究極のストレス解消法だったということです。
豊かな人々も参宮するように
時代が下り、明和の時期になると、下層民たちだけではなく、経済的に豊かな人々も伊勢神宮へ繰り出すようになります。「おかげ参り」という呼称が使われ出したのも、この頃です。それまでは個人的な参宮であったものが、伊勢講のシステムが全国的に広まりました。
お金がなくても大丈夫
突発的にいなくなり、伊勢神宮へ参宮する行為そのものは許されていたとはいえ、その旅費はどのように捻出していたのでしょうか。経済的・社会的に厳しい状況に置かれた人々たちが、簡単に伊勢までの旅費を賄えたとは、到底思えません。
実は、伊勢へは無銭で行って帰ってこれたのです。それはなぜかというと、伊勢をあげてのボランティアがあったからです。
伊勢をあげてのボランティア
当時、多くの人々が訪れた伊勢では、様々なボランティアが行われていました。たとえば、仲間からはぐれた人々を調べて引き合わせたり、米を炊き、握り飯を作ったり、銭や茶なども振る舞ったりしました。
さらには、町人や百姓、寡婦にいたるまでが、抜け参りの人々のために宿を貸し、神宮への案内をつけたりもしたそうです。なんて、至れり尽くせりなのでしょう。また、明和期には都市部の富裕層も、大規模な施行・接待に繰り出すようになったそうです。
参宮のシンボルになった柄杓
伊勢神宮参宮のシンボルといえば、柄杓ですよね。伊勢参りには、昔からずっと柄杓を持って行ったイメージがあるかもしれません。ですが、実際に使われ始めたのは、明和のおかげ参りからです。しかしこの頃も、末期の一部の者に限って見られるものでした。
柄杓が参宮のシンボルになったのは、その後の文政期です。柄杓は神様と人とをつなぐもので、古くは檜の曲げ物の器を神へのお供えに用いたことから、施行は柄杓で受けるという慣習が生まれたそうですよ。
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