歴代の神主を務めてきた宗像氏とはどのような一族だったのか?

福岡県・宗像大社の祭祀は、宗像氏という一族によって、代々執り行われてきたということをご存知でしょうか。

歴代の神主を務めてきた宗像氏とは、いったいどのような一族だったのでしょうか。今回は宗像氏の歴史についてご紹介していきますね。

目次

宗像大社には大宮司がいた

宗像氏が代々務めてきたのは、大宮司(だいぐうじ)という神職の位です。しかし、現在の宗像大社には、そのような位は存在しません。

今では宮司をトップとし、権宮司(ごんぐうじ)・禰宜(ねぎ)・権禰宜(ごんねぎ)・出仕(しゅっし)という階層に分かれています。他にも巫女さんや学芸員など、神職以外の方も奉仕されています。

また、現在の宮司を務めているのは葦津さんという方です。歴代の宮司には、高向さんや養父さんという方もいらっしゃいました。ということで、肝心の宗像さんはどこへ?

実は今から450年以上も前の戦国時代、最後の大宮司・宗像氏貞(うじさだ)という人物の死を持って、宗像氏は断絶してしまったのです。

宗像一族・宗像氏とは?

そもそも宗像さんとは、どういう一族なのでしょうか。宗像一族は、日本最古の正史『日本書紀』にも登場するほどの、古い歴史を持つ一族なのです。

大陸から文字(漢字)が伝わる前から“ムナカタ”と呼ばれていたため、「胸肩」「宗形」「牟奈加多」など、様々な字があてられた時代もありました。現在の「宗像」という表記に統一されたのは、平安時代だと言われています。

宗像一族の始まり

さて、『日本書紀』の中には、胸肩君(むなかたのきみ)は大国主命(おおくにぬしのみこと)の子孫で、吾田片隅命(あたかたすみのみこと)が一族の始であると記されているそうです。

宗像大社の御祭神・田子姫神(たごりひめのかみ)は出雲大社の大国主命と結婚していて、その6世の孫というのが吾田片隅命です。その人物こそが宗像一族の始まりということです。

また、それとは異なることが書かれているのが『西海道風土記』です。こちらの資料は宗像一族に伝わるものだといいます。

その中には、宗像三女神と同胞の大海命(おおあまのみこと)の子孫が宗像一族であると記されているそうです。では大海命とは? という疑問が湧いてくるのですが、「天神之子」と記述があるのみで、よくわかっていないそうですよ。

ヤマト朝廷とのつながり

このように食い違う『日本書紀』と『西海道風土記』の内容ですが、いずれにせよ、当時の皇室やヤマト朝廷との関わりを感じさせますよね。

沖ノ島でヤマト朝廷による国家祭祀が行われるようになったのは4世紀後半と言われています。ヤマト朝廷とはいえ、大陸との交流を進めるには、高い航海術を持っていた宗像氏の力が必要だったそうです。

そこで両者は神話の上でも結びついたのではないか、とも考えることができます。実際に天武天皇に嫁ぎ、高市皇子(たけちのおうじ)を産んだ尼子娘 (あまこのいらつめ)という女性は、胸形君徳善の娘だったと言われているんですよ。

新原・奴山古墳群

さて、2017年、世界遺産に登録されたのは宗像大社だけではありません。登録された資産の正式名称は、『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』といいます。それを構成するものの一つに、新原・奴山(しんばる・ぬやま)古墳群があります。

この古墳群こそが、宗像一族の存在を裏付ける物証と言われているのです。海の民とも呼ばれる宗像一族が埋葬されたのは、海が臨める台地でした。5世紀から6世紀にかけて築かれたという古墳群は、その数41基に上ります。宗像一族の繁栄が、ここからもよくわかりますよね。

海の宗像一族≠大宮司の宗像氏?

時代が下ると、宗像氏は宗像大社の大宮司に就きます。宗像大社の初代大宮司については諸説ありますが、清氏親王(きようじしんのう)であると伝えられています。

清氏親王は、宇多天皇の子だそうです。宇多天皇といえば平安時代、菅原道真(すがわら・みちざね)を登用したことで有名ですよね。

さて、朝廷によって宗像大社の大宮司職が正式に認められたのは、4代大宮司の宗像氏能(うじよし)からだといいます。むしろ、清氏親王の存在そのものが疑われているようです。ですが宗像大社とその周辺地域では、清氏親王を大宮司家の始祖とみなしているそうですよ。

さらに気になるのが、これまで説明してきた宗像一族と大宮司を務めてきた宗像氏との関係です。いきなり宇多天皇の子なぜ? と思いませんか。どうやら海の民・宗像一族と、大宮司を務めた宗像氏との間には、連続性が認められるとは言い切れないようです。

大宮司家について

大宮司家の話に戻りましょう。初代の清氏親王は、宗像清氏と名を改めます。それ以降は、その子孫が宗像大社の神職を司ることになりました。そして戦国時代の第80代(79代とも)大宮司・宗像氏貞まで、大宮司の職は続くこととなります。

さらに宗像大宮司家は、大宰府に置かれた大宰師(だざいそち)という、現在の外務大臣にあたる役職を何人も輩出しています。さらに第2代大宮司・宗像氏男(うじお)は、藤原純友の乱(939-941年)に朝廷側として参戦していたそうです。

また驚くことに、宗像氏は鎌倉時代以降、武士化していきます。戦国時代に入ると、大名の大友氏に攻め込まれたこともあったそうです。そして最後の大宮司となった氏貞(うじさだ)には跡継ぎとなる男子がいなかったため、氏貞の急死によって宗像氏は途絶えることになりました。

最後に

宗像氏は途絶えてしまいましたが、宗像大社の神職や地域の人びとによって信仰は支えられました。それが今日まで伝わっているのです。

宗像大社が世界遺産に登録された理由に一つには、信仰を守るために努力をしてきた人々がいたことも挙げられるのではないでしょうか。そんなことに想いを馳せつつ、現地に足を運んでみたいものです。

【参考】

  • 宗像大社 

冊子「神郡宗像」

http://www.munakata-taisha.or.jp/infomation/cat6/

「祭祀の変遷と対外交流の証」

http://www.okinoshima-heritage.jp/know/ritual

「海と一体的な空間の中で ― 新原・奴山古墳群 ―」

http://www.okinoshima-heritage.jp/know/people

  • 宗像市「最後の大宮司 宗像氏貞」

http://www.d-munahaku.com/tanken_history/vol3/contents04_sengoku.html

福津市「世界遺産 新原・奴山古墳群」

http://www.city.fukutsu.lg.jp/kankou/shizen/sekaiisan.php