岡県にある宗像大社は、「裏伊勢」とも呼ばれていることをご存じでしょうか。伊勢といえば、三重県にある神宮が思い浮かびますよね。実はこの二つの神社には、とても深い関係があったのです。
そこで今回は、宗像大社と伊勢神宮、そして皇室とのつながりについても簡単にご紹介しています。
目次
宗像大社と伊勢神宮について
宗像大社と伊勢神宮のつながりの前に、まずは二つの神社について簡単にご紹介していきます。
伊勢神宮とは
伊勢神宮は三重県伊勢市にある神社で、正式名称は「神宮」といいます。内宮(ないくう)と外宮(げくう)という二つの大きなお宮が有名ですが、大小様々125もの社から構成されています。
内宮でお祀りされている神様は、天照大神(あまてらすおおみかみ)といいます。天照大神は、皇室の祖先神とされている女神です。そして神宮は「式年遷宮」という20年に一度、神様のお引っ越しが行われることでも知られています。
宗像大社とは
宗像大社とは九州の北部、福岡県宗像市にある神社です。全国に約6千社あるといわれている、宗像神社の総本宮でもあります。そして宗像大社といえば2017年、世界文化遺産に登録されたことは記憶に新しいと思います。
宗像大社といっても一つの場所を指しているのではなく、大きな3つのお宮の総称のことをいいます。それらのお宮では、それぞれお祀りしている神様は異なります。
- 沖津宮(おきつぐう):田心姫神(たごりひめのかみ)
- 中津宮(なかつぐう):湍津姫神(たぎつひめのかみ)
- 辺津宮(へつぐう):市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
“姫神”というだけあって、お祀りされている神様はみんな女神であることがわかりますよね。この三柱は美人姉妹で、あわせて宗像三女神と呼ばれることがあります。
また宗像大社といえば、とても有名なのが沖ノ島。沖津宮が鎮座している島のことです。九州本土から約60kmの沖合に位置している、玄界灘に囲まれた絶海の孤島です。この島では古代において、航海の安全を祈るための国家祭祀が行われていたことが知られています。
深いつながりのあるご祭神
さて、それでは二つの神社の深いつながりについてご紹介していきましょう。まずは、それぞれの神社でお祀りされている神様には深いつながりがあるということです。
宗像三女神は天照大神の子?
宗像三女神誕生のきっかけは、天照大神と弟のスサノオノミコトとの誓約(うけい)であったとされています。誓約とは占いのことです。
スサノオに謀反の心があるのではないか、と疑った天照大神。その疑念を晴らそうと、スサノオが提案したのが誓約でした。互いの持ち物を交換して、そこから生まれた子が女神であれば、スサノオの疑いは晴れるものと取り決めをしました。
そこで天照大神はスサノオの剣を噛み砕き、吹き出した息の霧から宗像三女神が生まれました。スサノオの剣から生まれたのでスサノオの子なのでは?とも考えられますが、宗像三女神は天照大神の子であるともいわれています。
天照大神の神勅を受けた宗像三女神
神話の世界ですので、実際にどちらの子であるかは置いておきましょう。とにかく天照大神と宗像三女神の間には、深いつながりがあることがわかりました。
さらに天照大神は、宗像三女神が宗像大社に祀られるきっかけを作っています。
『日本書紀』の中には、天照大神は宗像三女神に神勅(しんちょく)を下したと記されているそうです。その内容とは「天孫(あめみま)を助け奉りて 天孫(あめみま)に祭(いつ)かれよ」、天孫とは皇室のことを意味します。
すなわち皇室を助け、皇室から祀られなさいということです。宗像大社と天照大神・皇室とのつながりを感じることのできる話ですね。
宗像三女神は特別扱い
『日本書紀』の中には他にも、宗像三女神は国民をあらゆる道にお導きになる神、つまり道主貴(みちぬしのむち)だということが記されています。名前に「貴」という字が使われているのが、ここでのポイントです。
「貴」は最も高貴な神様に贈られる尊称のため、いくら神様とはいえ、簡単に使うことはできません。他に「貴」が付けられている神様は、天照大神の大日靈貴(おおひるめのむち)、出雲大社でお祀りされている大国主命の大己貴(おおなむち)しかいないのです。
宗像大社が「裏伊勢」と呼ばれる理由ははっきりしませんが、神宮でお祀りされている天照大神と同じく、非常に格の高い神様として崇敬を集めていたことがわかりますよね。
宗像と皇室のつながり
以上、神話ベースのお話でした。ここからはもっと現実的といいますか、史実に基づくお話もご紹介していきたいと思います。
沖ノ島で国家祭祀が行われるようになった理由
先ほど、沖津宮のある沖ノ島では国家祭祀が行われていたことに触れました。しかしなぜ、九州本土から遠く離れた小さな島で、祈りが捧げられるようになったのでしょうか。
海の民・宗像一族が崇めた神様
宗像は九州の北に位置しています。大陸や朝鮮半島に近いため、交易を行う上で非常に重要な場所でした。そして、その宗像の地には優れた航海術を持った宗像一族がいました。そこで古代のヤマト朝廷は、宗像一族と結びついて大陸との交流を深めていったといいます。
さて、現在も「神の宿る島」との異名をもつ沖ノ島ですが、実はヤマト政権による国家祭祀が行われる以前から、神聖な場所だったということがわかっているそうです。沖ノ島ははるか昔から、宗像一族などによって地域の神として崇められていたといいます。
地域の神から国家の神へ
宗像と朝廷が結びついたことにより、その地域の神様が国家の守護神として祀られるようになっていきました。昇格したということですね。そのような経緯によって、沖ノ島で航海の安全を祈る国家祭祀が執り行われるようになったということです。
神話の中では神勅を受けたことになっていますが、その裏側にはこのような現実があったようですね。
皇室との婚姻関係があった
このような宗像と皇室のつながりは、宗像一族と皇室の間の婚姻関係にも見ることができます。宗像一族の胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)は大海人皇子に嫁いでいるそうです。
大海人皇子といえば、後の天武天皇のことですよね。「日本」という国の形を作ったといっても過言ではありません。天武天皇は当時、朝鮮半島にあった国・新羅(しらぎ)との交流を深め、国家づくりを進めていました。そこで宗像一族の力を借りる必要があったため、婚姻関係を結んだと考えられます。
伊勢神宮の建物が宗像大社に
宗像大社と天照大神、そして皇室とのつながりが深いことをご理解いただけたでしょうか。最後に、伊勢神宮との物理的なつながりについてご紹介します。
宗像大社の第二宮・第三宮とは
宗像大社は三つのお宮から構成されていることをご紹介しましたが、それぞれ遠く離れた場所に鎮座しています。沖津宮があるのは繰り返しますが沖ノ島、中津宮も大島という離島に位置しています。
となると、九州本土の人はなかなか沖津宮と中津宮には参拝できません。ですが宗像本土にある辺津宮には、第二宮(ていにぐう)と第三宮(ていさんぐう)と呼ばれるお宮があります。
第二宮には沖津宮の田心姫神が、第三宮には中津宮の湍津姫神がお祀りされています。そこで参拝者は辺津宮を訪れ、これらのお宮にも参拝すれば、宗像三女神すべてにお参りしたことになるといいます。
宗像大社にも唯一神明造の社殿が
神社建築にはいくつかの種類がありますが、第二宮と第三宮は「唯一神明造」と呼ばれる様式です。詳しい方はあれ?と思ったはずです。唯一神明造とは、伊勢の神宮のみにみられる様式だからです。
ですが、理由は簡単です。これらの社殿は、伊勢の神宮から下賜されたものだからです。先ほど少し触れた「式年遷宮」では、社殿や宝物などもすべて新しくする必要があります。神様には常にみずみずしいところにいていただこう、という考えがあるからです。
ということで、式年遷宮の度に不要になる社殿や材木が出てくるということですね。第二宮と第三宮は、そんな古くなった伊勢神宮の別宮を譲り受けたものだったのです。神話や史実ばかりでなく、目に見える形でも二つの神社はつながっているのですね。