神宿る島沖ノ島、『宗像大社と戦争』について歴史を学ぶ

神宿る島と呼ばれ、何かと神聖視されている沖ノ島。ですが実は、この島には神聖とは真逆の、“戦争”にまつわる穏やかでないエピソードも存在しているのです! そこで今回は、宗像大社と戦争について、簡単にご紹介していきます。

目次

日露戦争と日本海海戦について

日露戦争【1904~1905】とは、満州や韓国を巡って勃発したロシアとの戦争です。当時の日本にとっては、国家の命運をかけた大変な戦いでした。大国ロシアと戦うには17億円(当時の数年分の国家予算に相当)という巨額の戦費を必要とし、日本は総力をあげて戦っています。

戦局を決定した日本海海戦

そんな日露戦争の局面を決定づけたのが、日本海海戦と言われています。東郷平八郎率いる日本連合艦隊が、当時世界最強と呼ばれたロシアのバルチック艦隊を打ち破ったのです。司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』でも描かれているので、よくご存じの方も多いのではないでしょうか。

バルチック艦隊が負けた理由

実はこの時ロシア側は、いくつかの災難に見舞われていました。誤ってイギリス漁船の乗組員を殺傷してしまったのが原因で、イギリスの植民地への入港は拒否され、さらに追尾まで受けることになります。良質な燃料や食料を手に入れることが難しくなり、多くのロシア兵は戦いの前に消耗していたそうです。

さらにバルチック艦隊の航海ルートは、ヨーロッパからアフリカやインド洋をぐるりと回って来るものだったため、半年以上の航海を続けていました。長期の航海では、フジツボなどの大量の海洋生物が船底に付着します。このため、バルチック艦隊のスピードは遅くなっていたとも言われています。

日本海海戦を目撃した宗像大社の神職たち

さて、このように疲れ切っていたバルチック艦隊に対し、日本の連合艦隊は万全の準備でこれを迎え撃ちます。その場所は韓国と九州の間に位置する対馬海峡、くしくも神宿る島・沖ノ島近くの海域が戦いの舞台となったのです。そして明治38(1905)年5月27日、日本海海戦で両者は激突しました。

当時16歳が見た日本海海戦

海上で行われたこの戦いですが、目撃した民間人が何人かいたと言われています。そのうちの一人、佐藤市五郎(当時16歳)は、沖ノ島に在勤していた宗像大社の神官の下働きをしていました。

そして樹の上から日本海海戦を目撃した佐藤は、その詳細を日誌に書き留めていたのです。さらに佐藤はその後、この当時のことを振り返り、手記にもまとめています。その中には当日の天気や海の状態、聞こえた砲声や動き回る海軍兵の状況などの様子が綴られています。

多くの命が失われた戦い

教科書などには日本海海戦は、「ロシアのバルチック艦隊を日本連合艦隊が撃ち破った」程度にしか書かれていません。また「海戦史上類を見ない完全勝利」とも言われているため、どうしても華々しいイメージを持ってしまいがちです。

しかし実際には、生々しい戦闘があったのですね。日本海海戦で失われた命は日本側117名、ロシア側に至っては4,830名とされています。

神宝館にも日露戦争にまつわる展示品が

日本連合艦隊の司令長官・東郷平八郎は、歴史的勝利を飾れたのは沖ノ島の御神徳であったとして、後に宗像大社にあるモノを奉納しています。それは旗艦「三笠」の羅針儀と「神光照海」という揮毫(きごう)です。

これらは現在、宗像大社の神宝館で展示されています。特に羅針儀は、三笠に搭載されていた計器で唯一現存するものだそうですよ。興味をお持ちの方は、現地を訪れてみてはいかがでしょうか。

宗像大社神宝館

住所:福岡県宗像市田島2331(宗像大社辺津宮境内)

開館時間:9:00~16:30(最終入館は16時)

休館日:年中無休

沖津宮現地大祭とは

そんな歴史的な5月27日ですが、宗像大社ではその日にちなみ、「沖津宮現地大祭」というお祭りが行われてきました。両国の戦没者の慰霊のためです。そして普段は一般人の上陸は規制されている沖ノ島ですが、この日に限り、抽選で選ばれた約200名の男性が入島することができました。

現地大祭のスケジュール

選ばれた人々はまず、前日から大島に宿泊する必要がありました。これには外界との交流を断ち、身を清めるという意味もあるそうです。そして翌朝沖ノ島に向かうのですが、上陸する前には裸で海に入り、禊(みそぎ)を行います。

服を身に付けたら沖津宮の社殿へ向かい、神職が祝詞(のりと)を奏上する神事が行われるそうです。その後、再び海岸へ戻り、簡単な直会(なおらい)をして帰路に就くというスケジュールだったそうです。

一般人の入島全面禁止

このように年に一度だけは、男性に限るとはいえ、一般人が沖ノ島に立ち入ることができました。ですが2017年7月、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群が世界遺産に登録されたことを受け、資産の一層の保護が必要となりました。

そこで宗像大社は2018年以降、一般人の上陸を全面的に禁止することを決定しています。

太平洋戦争中は軍事拠点に

さて、沖ノ島に残る戦争の跡は、何も日露戦争だけではありません。太平洋戦争【1941~45】の際には、軍事拠点として使われていたといいます。日本の旧陸軍は1940年に沖ノ島に砲台を設置、戦時中は約200名の兵士が島で生活をしていたそうです。

今となっては考えられませんが、兵士たちは生活をするために原始林を伐採していました。沖ノ島に配備された兵士たちは、主に潜水艦撃退の任務を負っていたとか。神宿る島も、当時は国防の一部を担っていたとは驚きですね。島内には今でも弾薬庫や砲台の跡など、戦争の遺跡が残っているようです。

最後に

古くから信仰されてきた「神宿る島」は、良くも悪くもこの国の歴史を見てきたようです。

沖ノ島が世界遺産に登録されたことで、良いことや楽しいことばかりにスポットが当てられています。ですが暗く影を落としている歴史にも注目してみると、さらに理解が深まるのではないでしょうか。

【参考】

  • withnews「沖ノ島、今も戦争の跡 世界遺産候補「神の島」に砲台、古木も伐採」

https://withnews.jp/article/f0150815001qq000000000000000G0010401qq000012382A

  • ヤフーニュース「宗像市大島で日露戦争の慰霊祭~日本とロシアの新たな友好と平和の懸け橋を!」

https://news.yahoo.co.jp/byline/kodamakatsuya/20131103-00029474/

  • 「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議「沖ノ島だより6」

http://www.okinoshima-heritage.jp/magazines/detail/9

  • 宗像大社「神郡宗像第3号」

http://www.munakata-taisha.or.jp/infomation/singun03.pdf

  • 玄海ロイヤルホテル「【福岡】玄界灘に浮かぶ自然と歴史の島「宗像大島」のおすすめスポット5選!」

http://www.daiwaresort.jp/genkai/munakataoshima/

  • 個人ブログ

http://halohalo-online.blog.jp/archives/1068023899.html

  • 宗像大社「神宝館」

http://www.munakata-taisha.or.jp/html/shinpoukan.html

  • 毎日新聞「沖ノ島で目撃 当時16歳・佐藤市五郎さんの手記見つかる 交流あった大島の板矢さん、冊子にまとめる /福岡」

https://mainichi.jp/articles/20161020/ddl/k40/040/391000c

  • ダイドードリンコ「2014年 宗像大社 沖津宮現地大祭」

http://www.dydo-matsuri.com/archive/2014/munakata/

  • 日本経済新聞「沖ノ島、一般人の上陸全面禁止へ 世界遺産登録」

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG15H4R_V10C17A7CC1000/